今日の一言 237「執着しない」

おはようございます!!

本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!

 

一言シリーズですが 

浮かんだ言葉を、ちょこっと書いてみます

 

執着とは、コダワルこと。
コダワリが多いと、心の平安は、ほぼ不可能。

人は、過去にコダワリがちです。
「昔、こういうことがあって、こうだったから…」
こういうことを延々と話し続けているうちは、心に平安は訪れません。

万が一、過去、その人が信じていたことが、その時その瞬間、正しいことだったとしても、時代が変われば、正しさも変わります。

宇宙のありとあらゆることが変化し続ける中で、何かにコダワルと幸せを感じられません。
たとえば、

実際は、10年どころか、3年も違えば、世間の価値観や常識は変化しています。
それなのに、

「20年前は、コウだった!」
「10年前は、コウだった!!」
「 3年前は、コウだった!!!」、、、
と、コダワレばコダワルほど、今、目の前にある現実はそうなっていないので、どんどん苦しくなっていきます。

「これは、コウやるのがやるのが正しい」
「こういう場合は、コウやるものだ」
「わたしは、コウいう人間です」
言い切ったり、断定したりしている時点で、コダワッているわけです。

執着しています。執着すればするほど、心の平安が遠くなります。

自分自身をとっても、常に変化し続けている
小学生の時の自分と高校生の時の自分が違うことで悩み、違う願望を持っているのは、ある意味、当たり前です。

20才の時の自分と30才の自分が違うことで悩み、違う願望を持っているのは、ある意味、当たり前です。

30才の時の自分と40才の自分が違うことで悩み、違う願望を持っているのは、ある意味、当たり前です。
40才の時の自分と50才の自分が違うことで悩み、違う願望を持っているのは、ある意味、当たり前です。

 

人の生命の細胞は、毎日、入れ替わっています。
ものの数年も経てば、全ての細胞が変わって、別人になっています。

それが、ずっと同じことで悩み、同じ願望を持ち続け、同じことを力説し続けているとしたら、それは、執着しているのです。

記憶の中で生きている。

過去なんて幻想です。過ぎ去ったものです。
ただ、本人の中にあるだけのものです。

もし、その時・その瞬間、真面目にやったのであれば、全力を尽くしたのであれば、最善を尽くしたのであれば、流して忘れ去ってしまえばいい

昨日の自分と今日の自分が同じでなければならないというルールは、どこにもありません。
昨日は昨日なりに最善を尽くした。であれば、もう終わりです。

今日は今日だけに集中して、今日の自分として最善を尽くす。
人が「自由」に生きられないとしたら、自分で自分の心を縛っているからです。
過去の記憶に執着している。

今すぐ、心を「自由」にするのは難しいでしょう。
頭は簡単に変えられますが、心は、そう簡単には変えられません。
1番簡単に出来そうなことで、執着を捨ててみる。
それは、物を手放す

物であれば、最悪、どうしても必要であれば買い直すということも出来ます。まずは、今、必要だと思っている物を、何か1つ手放してみる。そして、本当に困るかどうか試してみる。

そうすると、99.99%、困りません。
「これは、絶対に必要なもの!!」というのは、単なる思い込みで幻想だったことに気付けます。
そうやって、自分が必要だと思い込んでいるものを、ゆっくりと、ゆるやかに手放していくと、執着が薄れていきます。

結果、心も軽くなっていきます。
 

いつからでも、この瞬間からでも、幸せにも、自由にも生きられます。

何故なら、本当に大切なものは、全て「内」側から、感じることだけだからです

 

 

今日も素晴らしい1日を!

楽しんでまいりましょう!
ではまた♪

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